「伝える言葉」プラス
朝日新聞の連載エッセイをベースにしたエッセイ集。
大江健三郎の読書スタイルには憧れる。一人の作家や主題を決めて3年間深く深く読み続ける。師である渡辺一夫のアドバイスに始まったこの習慣は15回目の3年目に入ったそうだ。T・Sエリオット、イエーツ、ウィリアム・ブレイク、ダンテの神曲など、その深い読書は大江の各時代の作品に色濃く反映されてきた。
私も学生時代に、この大江の習慣を知って、ウィリアム・ブレイクや神曲の読み込みに挑戦してみたことがあったが、3ヶ月も持たなかった。好奇心だけでは、そこまで一人の作家や主題に興味を持続させられないのである。
大江の読書は、論文を書くために特定の作家を読む文学部の学生とも動機も集中度も違うようである。障害を持って生まれた息子との共生への答え、救いの光を文学にみつけたい、だとか、作家としての行き詰まりを突破したい、そのための切実な祈りのような習慣のようである。
「
初めのうちは、毎週のように神田や丸善ほかへ出かけてその主題の本を集めます。その期間は仕事をしませんし、まだ自分が本当に読みたい方向もわかっていませんから手当たりしだいに本を買いますので、そうしたことが永年の間に幾度も繰り返されて、家内は家計のやりくりに大変だったろうと思います。
それらを読み続けて、二年もたつと、素人ながら本のかたまりに埋もれている暮らしで、何を本当に読みたいのかが、はっきりしてきます。そこへ向けて本を読むことに集中して、ほかのことは上の空、というふうになります。
」
2年間読むだけの生活で、やっと読みたいものが定まるのである。ユダヤ神秘主義の研究書1000ページの英訳を1年間、朝から晩まで読んでいたという記述もあった。10年前の断筆宣言も、本当に小説をやめるつもりではなくて、主題探しの読書の4年間を確保したかったからそう言ってみただけだった、などという告白もある。そうやって「生き続けていくのに必要な気のする本のかたまり」とのつきあい続けて70歳になっているのだ、この作家は。
書き手としても推敲を徹底的に重ねる「エラボレーション」型作家としての大江文学を読んでいると、理性的に構築する作風と同時に、その底に流れるルサンチマンの熱さ、厚みに圧倒されることが多い。冷めた文体なのに沸々と煮えたぎっているのは、3年、4年も続ける集中的な読書生活があるわけだ。このエッセイ集では、小説を書いていないときの大作家の日常と思考が垣間見えて面白かった。
(そうした深い読書の話と比べると、何本か収録されている憲法9条や教育基本法についてのエッセイは、私にはぴんとこなかった。)
はじめまして。
呉と申します。
橋本さんのご意見を拝見させていただいておりまして、
非常に共感がもてます。
このたび、無敵会議から来たのですが、
こちらの無敵会議は、未だ活動していますでしょうか?
よろしくお願いいたします。
12月9日に忘年会議を開催予定です。
無敵会議シリーズそのものは終了していますが、毎年一回忘年会議は開催しています。