日本語と日本人の心
1995年に開催された大江 健三郎,河合 隼雄,谷川 俊太郎という豪華な3人のパネルディスカッションの記録をベースに構成した日本語・日本文化論。
西欧的な論理性の文体の小説家である大江と、翻訳不能な母語の土着性を重視する詩人の谷川は、日本語に対して意見の隔たりが大きい。互いの仕事へのレスペクトを終始忘れない穏やかな言葉遣いでありつつも、本質をめぐる議論では対立が明らかに目立ってきて、スリリングな展開がある。
大江氏曰く
「
ですから、文学の創造性ということを、神が創造性となぞらえて考えることは、私はまちがいじゃないだろうかとおもう。言葉という共通のものを用いながら、しかも個人の輝き、この人だけのものという輝きがあるものをつくりだすのが文学で、それは無意識とかいうことよりは、共通の言葉をどのように磨いていくかということに問題がある。共通の言葉にどのように耳をすますかということに、カギがあると思っています。
」
大江健三郎の文体が翻訳調である理由は、やはり、世界に向けて普遍的な言葉で書くという強い意志の表れであるようだ。その意志こそ、日本語ではなく普遍言語の使い手として、ノーベル文学賞を受賞した理由でもあるのだろう。
これに対して、谷川 俊太郎は無意識や深層意識にあるものを意識化して言葉に反映する詩の感受性、創造性こそ重要だと考えている。日本人として生きてきたなら、生活の言葉に対する思い入れがある。ひとつの言葉をひらがなで書くか漢字で書くかに大きな違いがある。外国語には翻訳できない要素がある。普遍言語の観念語(例えば大江氏のよく使う、民主主義とか自由とか)は、日本語にはイマイチなじまないというようなことも述べている。
アタマで徹底的に考えて意識的に書く小説家と、舞い降りてくるインスピレーションで創造する詩人の違いが対照的だ。この二人の間に司会進行役として、ユング研究の権威の心理学者(後の文化庁長官)の河合氏が、日本人の心と言葉の関係性について発言する。
河合氏は最初に谷川氏の「みみをすます」という詩を朗読する。耳をすますという言葉は英語への翻訳が難しいらしい。フロイトの「平等に漂える注意」だとか別の学者の「第三の耳で聞く」という表現が近い気がするが、耳をすますは、もっともっと広い気もするという。身体性の言葉はそれを母語とする話し手にとって、「言葉で言っているのだが言葉では言えない」ようなあり方をしている。
河合氏のパートでさすが精神分析の専門家だと思ったのは、言葉が使われる背景としての社会関係や文化に対する洞察の部分。日本文化あっての日本語なわけだ。
「
これはどこだったか忘れたのですが、どこかの文化人類学者の報告のなかにあって、すごく感激した言葉があります。「ノーと言えない日本人」という言葉があって、日本人は「ノー」と言わないのがすごく悪いようにいわれていますが、そこの文化だったら、相手が「ノー」と言わねばならないようなことを言うのがもう失礼なんだという。だから、その考えによると、アメリカというのは、要するに、すごく失礼だということになります。
」
日本語は感覚的であいまいで、英語は論理的という印象があるが、日本人はぶしつけに聞いて答えるような社会関係に住んでいないわけで、言葉単体で比較して優劣はいえないわけである。谷川氏は、読むものに異文化を理解しようという学びあいの姿勢があれば、普遍語的に書かなくても、外国人にだって、わかってもらえるはずだと述べている。
翻訳が困難とされる川端康成の文学でも日本文化への理解があれば外国人にも理解されうるというのが谷川氏のスタンスだ。むしろ母語の深みを持った多様な文学が世界文学になるべきであって、翻訳可能性を意識した普遍語の文学が世界文学というのはいかんだろうという意見があって、なるほどと思った。
3人の話し手が緊張感を失わずに討論する第二部を挟んで前後に、パネルでは伝え切れなかったことを河合氏、谷川氏が綴った第一部と第三部で補完しておりバランスがとれている。だいぶ前の本だが、文庫化、増刷されている名著。
はじめまして。
『日本語と日本人の心』を読まれた方を探していて、こちらのページにたどりつきました。
同書のコアともいえる、「作家(大江)の論理性」⇔「詩人(谷川)の直感性」の対立について分かりやすくまとめられていて、大変参考になりました。
つたない記事で恐縮なのですが、アドレスを貼らせていただきましたm(_ _)m
http://yondoco.seesaa.net/article/31163870.html