思索の淵にて―詩と哲学のデュオ
こんな日本語を書けるようになりたいと思う作家に詩人・茨木のり子がいる。
・茨木のり子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E3%81%AE%E3%82%8A%E5%AD%90
「茨木 のり子(いばらぎ のりこ、1926年6月12日 - 2006年2月19日 本名・三浦のり子)は、同人誌「櫂」を創刊し、戦後詩を牽引した日本を代表する女性詩人にして童話作家、エッセイスト、脚本家である。戦中・戦後の社会を感情的側面から清新的に描いた叙情詩を多数創作した。主な詩集に『鎮魂歌』、『自分の感受性くらい』、『見えない配達夫』などがある。」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今年の2月に他界された。凛として、寄りかからない、自律した個の表現を貫いた人であった。この本は、在野の哲学者 長谷川宏が、茨木の詩集から30編を選び、各作品に対してエッセイを綴っている。
詩人の詩と哲学者のエッセイが交互にあらわれる。長谷川のエッセイは単なる詩の解説にとどまらず、長谷川自身の人生や現代社会に対する考察に広がっていく。混ざり合わない。表題どおり、個と個の思索の淵をのぞきこむといった感じである。
茨木のり子は序文にこう書いた。
「
思索という言葉からは、なにやら深遠なものを想像しがちだが、たとえば女の人が、食卓に頬杖をついて、ぼんやり考えごとをしているなかにも、思索は含まれると思うほうである。
」
落ちこぼれ、という詩は、こんなふうに始まり、こんなふうに終わる。
「
落ちこぼれ
和菓子の名につけたいようなやさしさ
<中略>
落ちこぼれ
結果ではなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ
」
なにげなくはじまって、なにかになって終わる、そんな作品が多い。
選者の長谷川氏は私塾の経営者であるため、教育についての思索エッセイも多い。義務教育の教室に対する疑いを綴った下記の節はとても共感した。
「
一つには、同年齢の子を一箇所に集め、その前に一人のおとなが立って教える、という場のありかたを、わたし自身が窮屈だと感じているためだ。子どもたちがわれから進んでこんな集団やこんな場を作ることは、絶対にない。おとなにしても、社会の現実と子どもの将来を考えた上で、こういう形の教育が必要だし効率的だとして作り出された人為的空間が教室という場なのだ。そして、そうした空間を維持するには、なにより、おとなの管理が必要とされるのはいうまでもない。
」
現実、おとな、効率的、管理、そうした人為的窮屈から、華々しく落ちこぼれた、ふたつの意志による思索の結晶の一冊。詩、エッセイ、詩、エッセイという並び方がテンポよく読めるのも良かった。
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http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003722.html
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