さようなら、私の本よ!
「
さようなら、私の本よ!
死すべき眼のように、想像した眼もいつか閉じられねばならない。
」
この本を大江健三郎は、長い作家生活の最後の小説と宣言してから発表した。過去にも断筆宣言や最後と言ったのに次を書いたことがあるセンセイであるから、本当にこれで最後になるのかは定かではないが、それなりの覚悟で書かれた作品であることは、読みながら感じ取れた。
ノーベル賞作家としての著者の分身である主人公、長江古義人と、奇縁で結ばれた幼馴染の著名な建築家椿繁の”おかしな二人組”が、老年になって過去のわだかまりを越えて再会するところから物語が始まる。繁は若い教え子とともに、大きな暴力に対する、小さな抵抗のためのテロの企みを持っている。繁が所有する”小さな老人の家”という名の別荘で、病後の静養に誘われた古義人。彼らとの共同生活の中で、その一部始終を見て書き残す役割に、作家としての意味を見出し始める。だが、企みは外部の世界の思惑も絡んで、思わぬ展開を見せ始めて......そんな内容である。
私は学生時代から読み始めて、大江健三郎の本は、エッセイ集も含めて9割は読んでいると思う。最後の読者サービスなのか、読み続けている熱心な読者にとっては、読みどころが特に多い。四国の谷間の森、障害者の息子アカリと音楽、エリオット、ダンテ、渡辺一夫(この本では故人の六隅さんとして登場)、樹木への執着などの、歴代作品に登場してきた一連のメタファーが、次々に説明なく登場する。ファンは各々の文脈を知っているのですぐに独特の世界観にひきこまれるが、逆に過去の作品を知らない読者には読みにくいかもしれない。
読みにくいといえば、そもそも大江作品は翻訳調の読みにくい文体が特徴である。序盤で主題がわかりにくい作品も多いように思う。とっつきの悪さを我慢して半分くらいまで読み進めると、ドラマが大きく激しく動き始めて、物語の大きなテーマが浮かび上がって、ずっしり読むものの心にのしかかってくる。それが私の大江作品の全体印象だった。
「
新進作家のぼくが、年末に出版社のやるパーティに出て、手持ちぶさたにしているところへ、あの記者がやって来たんです。そして、あなたの出発点の文章はスッキリして、書いていることがよくわかった。今はゴテゴテしている。それは批評家が褒めてるような、あなたに豊かな資質があるというようなことじゃなくて、いま何を書いたらいいかわからないから、形容詞の煙幕を張ってということじゃないのか?そういって、向こうへ行った......
その夜、ぼくは下宿へ帰って、インタヴューの時、もらった名刺を取り出して考えたのね。明日ここに電話をして、も一度話を聞かせてもらったら、自分の入り込んでいる迷路から出られるかもしれない......しかし、その勇気はなくて、そのままになりました。
」
読みにくさ、自覚していたらしい。このように自身を主人公にして客観視する作風が多い作家だったが、この本では長い作家生活全体をパースペクティブに、大きく振り返っている風である。題名も「さようなら、私の本よ!」であるから、しめくくりのはずなのである。
しかし、これ、本当に最後の小説なのだろうか。自らを老人で大きな仕事を終えてしまった大作家と認めているが、9.11に始まる世界の現実に積極的に言及しているし、なにがしかの仕事を成し遂げる意欲を持った老人二人が出てくる。そのシンパの若者も物語の中で壮絶な役割を果たす。ぜんぜん枯れきってはいない。
著者は単に高齢で、いつ”大きな音を聞く日”が来てもいいように、次を最後の遺作にすると宣言しているだけなのではないか。話の中で主人公が執筆に使ってきた万年筆をなくす段があるのだが、その後もワードプロセッサで現実から読み取る”徴候”を熱心に書き続ける姿がある。このくだりを読むと、まだ次の作品、あるような気がする。
「最後の小説」を力点に書評してしまったが、物語として面白かった。
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