教えること、裏切られること―師弟関係の本質
考えてみれば、MixiやGreeが可視化している人間関係は、横のつながり、フラットで対等な人間関係がほとんどだ。日常の人間関係を探しても、組織上、制度上の一時的な役割としての、先生と生徒、先輩と後輩、上司と部下という関係はあるわけだけれど、全人格的で永続的な師弟関係というのは、現代では珍しい存在になってしまった。
著者はそうした現象をこう述べている。
「
戦後五十年を通観すればただちにわかることだが、その人間関係主義の大合唱の中から師弟関係という人生軸が、はじめから徹底的に排除されていたのだ。師弟関係という垂直軸を無視し否定することによって、人間関係という横並びの水平軸がいつも不安定に揺れつづけることになったのである。
」
「
その近代の宿命とは何かといえば、ヒトを師とするよりもモノ(文明)を師とする時代がはじまったということではあるまいか。ヒトを師としていると思っているうちに、いつのまにかモノを師と思い込み、モノに師として仕えてしまっていた。この場合モノというのは私の中では、もう一つ「主義」とか「思潮」といった言葉としてイメージされている。」
人としての師が要らなくなったのが近代から現代にかけての時代の変化だととらえられている。
この本では古典的な師弟関係の最後の世代である、近代日本における代表的な師弟関係が例として取り上げられる。
・孤高の僧、藤井日達と私
・弟子を持つの不幸――内村鑑三と斉藤宗次郎
・父なるものへの回帰――夏目漱石と和辻哲郎
・宿命のライヴァル――柳田国男と折口信夫
・究極の「師殺し」――棟方志功と柳宗悦
・師資不相承、ここに極まれり――正岡子規と高浜虚子
・親鸞、弟子捨ての真意
・師の人格をいかに相続するか
・『歎異抄』にこだまする唯円の叫び声
そして、師弟の人間関係軸には3つのパターンがあるという。
1 老子の道
弟子を一切寄せつけない孤高の師
2 孔子の道
弟子とともに生きる師
3 禅の道
乗り越え、殺すべき師
事例に取り上げられているうち最も多いのが、3の弟子が乗り越え、殺す師である。師は弟子を教え、弟子はやがて師を乗り越えて、新しい道を切り拓く。その過程で師は弟子に否定される。裏切られる。殺される宿命にある、という意味だ。のんびりMixiやGreeに登録できるようなぬるい関係ではないのである。
師弟は殺るか殺られるかの緊張関係であってこそ本物だ論。なかなか現代になじみにくいが、これもひとつの究極の教育の形なのだろうなと勉強になった。
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