基礎情報学―生命から社会へ

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基礎情報学―生命から社会へ
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ついに西垣情報学という巨大氷山の水面下に隠れた体系が一般に語られた、という感想。
情報の大統一場理論へ出発点におかれた青写真として大傑作。

■情報の定義、観察者問題のその先へ

この本の情報の定義は以下のようなものである。

「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」
( a pattern by which a living thing generates patterns )

著者は、情報の本質を生命情報の意味作用と考え、機械情報を主な対象としたシャノン、ウィーバーらの古典情報論は大きな情報学体系の一面的な捉え方に過ぎないとした。そして「意味をつくりだす存在としての生命」から出発し、意味作用を担う情報が、社会的に伝達され記憶されていく基本的なメカニズムを根底から考察した。それが書名となっている「基礎情報学」である。

基礎情報学で最も基本的単位となる生命は、自らの構成要素を自らが内側から産みだし続けるような自律ネットワークを指す「オートポイエティック・システム」であると定義する。このシステムが、情報を解釈することで意味が生まれる。

解釈者/受信者である生命は、脳と心的システムを持ち、刺激や環境変化に応じて意味作用を行い継起的に、自らの構成を変えていく。ヒトのこころであれば、何かを知ることで、思考の内容が変っていく。生命の体験そのものである原-情報は、心的システムに解釈され、言語化シンボル化、記述されることで、「社会情報」となる。歩いていて転んで「痛いっ」と言うとき、転んだことが原-情報であり、痛いのが社会情報である。情報は生物が生きるうえでの価値、意義から生じている。

心的システムの変容過程は、生命情報を受信した生命と「構造的カップリング」という共犯関係にある観察者(受信者と同一人物でもありえる)の視点があって、意味を持つ。原-情報のままでは、意味がない。よって生物が誕生する以前の地球には意味がなかったということになる。

■情報は伝達されない

第2の情報である社会情報こそ、私たちが一般的に「情報」と呼んでいるものである。社会には意味を共有する「コード」が存在している。ほとんどの社会情報は言語を使って表されており、コードは言語システムや背後の制度、権力関係に規定される。

この部分はフーコー哲学の権力と言説の関係に似ている。私たちは自由に思考しているようでいながら、政治、経済、法律、家族などの制度、権力の制約・拘束に縛られている。

基礎情報学と一般通念が大きく違う部分として面白く感じたのが、基礎情報学では人から人へ情報は伝達”されない”としているところである。対話によって情報がAさんからBさんに共有されたとしても、決して同一の意味内容をAさんからBさんの心的システムへ複製ができたわけではないというのだ。過去の知識も考え方も異なる心的システム同士は、完全に意味を共有することはない。が、対話による情報伝達ができているという観察ができるとき、そこには、情報伝達ができたことと同義の「意味伝達の擬制メカニズム」を想定できる、とする。

つまり、人は本質的には分かり合えないが、分かり合えたことと等価の擬制こそコミュニケーションと呼んでいるものであるという意味になるだろうか。ここで、連想したのが随分昔に読んだ、次の本の一説だった。

柄谷行人「探究1」P50-より引用。
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私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって、成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、”文脈”があり、また”言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明できる。---規則、コード、差異体系、などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの跳躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ神秘がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そしてわれわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換における危うさを露出させるような他者でなければならない
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情報や知識を他人と交換しようとして対話を始めるとき、私たちは、相手に分かってもらえるかどうか、事前には知りえない。とりあえず、話してみた結果、分かってもらえたり、そうでなかったりするのだ。文章やことばの分かりやすさ以前に、ことばの命をかけた跳躍というプロセスが存在している、という論である。基礎情報学にもコミュニケーションの偶然性という言葉がでてくるのだが、偶然性は跳躍のドラマなのかもしれないと思う。

■古典的名著になる予感、インターネットシステムに関する私的考察

基礎情報学は「マスメディアー機能的分化社会ー心」という階層構造を持ち、上位が下位を制約、拘束、規定しているとする。この本では、後半ではマスメディアやインターネット、ITによって溢れ始めた機械情報の意味について考察が行われる。個の立場から社会、マスメディアに至るまでを、一貫した理論で語り、遂には大きな情報学の体系の円環を完成させる。

部分的に語られることの多かった著者の情報論の氷山の下に埋もれた基底部分がいかに大きくて精緻なものかに圧倒される。読後、しばらく知的な感動で声もでなかったくらい。素晴らしい本で、10年後、20年後にも、この本は古典的名著で、情報学を学びたい人にとっての、考えるための起点となる教科書であり続けるのだろうなと思った。

だが、ひとつだけ、最終章近くの「インターネットのつくる現実ー像」の、おまけ的部分だけがどうしても納得できなかった。


基礎情報学ではインターネット・システムをいかにとらえるのであろうか。当然ながら「インターネット・システム」とは、インターネットのハードウェア/ソフトウェアのことではなく、「インターネットコミュニケーション(インターネット上で交わされるコミュニケーション)」を構成要素とするオートポイエティック・システムである。その連辞的メディアは「テーマ」であり、二値コードは「刺激的/非刺激的」であると考えられる。マスメディア・システムとは異なり、視聴率や販売部数のような明確なプログラム(二値コードの判定基準)は存在しないが、刺激的でも論争的でもないコミュニケーションは周囲から無視され、後続するコミュニケーションが生成されない。(以下略)

本当にインターネットでは「刺激的でも論争的でもないコミュニケーションは周囲から無視され」ているだろうか。90年代中盤であればその傾向は強かったかもしれない。だが、最近のインターネットの状況を考えると、私にはそうは思えない。ある程度のネットのリテラシーを持っているユーザは、裏情報的な刺激情報には距離を置くし、コミュニティにおける挑発的な発言には返事をしないはずである。

本当の二値コードは「共感可能/共感不可能」ではないかと私は考える。

著者の言う階層システム構造において、心的システムを規定しているコードは、2ちゃんねる的な言葉を使うならば、「オマエモナー」であり「ワタシモナー」なのではないか。インターネットユーザは、マスメディアが提示する少数の識者の意見を与えられるのではなく、ネット上に広がりを持つ無数の意見群の中から、自らが共感できる情報を選択する/他者が共感する情報を選択発信するのではないか。

インターネットが持つ潜在的脅威でありパワーは、集団ヒステリー、集団妄想のカタストロフではなく、歴史的に通常サイズ(この本にある数字では150人)のコミュニティ規模を超えた巨大な集団による、理性的且つ、ある程度は知的な、しかしテンポラリなシンパシー、臨時的な連帯を作り出してしまうことにあるような気がしている。スマートモブズ、「祭り」現象がそれに当たる。これらの背後にあるのは、刺激による過剰反応や熱狂的な論争ではないだろう、と思う。

・こころの情報学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001034.html

・情報検索のスキル―未知の問題をどう解くか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000616.html

と絶賛してみましたが、「本当にオマエそう思ったか?」と各所よりツッコミを頂きまして、素直なもうひとつの書評を読みたい方は、次をクリックしてみてください。


■これは学なのか?もうひとつの素直な感想

というわけで、個人的には大変面白かったのですが...。

表向きには絶賛のみだったのですが...。

もうひとつの素直な感想として、「こころの情報学」の読後感と同様に、これは名人によるジグソーパズルなのではないか、と感じました。さまざまなベクトルも粒度も異なる理論を、「この部品はここにうまく納めることができる」と整理して、ついに手持ちのパーツをすべて枠にはめこんで、見えてきた絵に、「基礎情報学」という名前を名づけて見せた。そんな感じもしました。 体系化指向の本ですが、本来はバラバラだった断章である理論の接合なので、これが体系かというと、よく分かりません。

「情報の大統一場理論へ出発点におかれた青写真」という宇宙論的野望のもとに書かれたのだと思います。内容の性質上、検証は難しいし、青写真に対して精緻さを論じても意味がないと思います。そういった意味ではこれは本当に「○○学」なのかというと疑問符もつくのですが、スケールの大きさとパズル解きの名人による技の妙に、ワクワクしながら読んだ一冊でした。学者ではない私にとって、文学も科学も実用書も、本は面白いかどうか、で評価しています。そういった意味では大統一場理論は大変面白い価値のある本です。

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絵を描く、プロの絵描きはそれを額縁に収めたときが
完成なのだ、というほどのことを何かの本で読んだ
覚えがあります。

どんなに描き込んでいても、額縁に収めるまでは
「完成」しない。枠取りを与えられて、初めて
「絵」は完成する、なぜなら、「ing」の文脈の中で
続けられていた、「描く」という行為がここで
endするから。

額縁に入れられて、つまりendして初めて、「絵」は
ひとつの閉じられた「体系」としてそこに存在する
ことになる。


>これが体系かというと、よく分かりません。

これは、西垣さんが「ing」で思考し続けている
からではないでしょうか。

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このページは、daiyaが2004年3月24日 23:59に書いたブログ記事です。

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