私の好きなゲームたち
■コンピュータゲームと私
1980年頃、コモドールというコンピュータメーカーが日本法人「コモドールジャパン」を設立し、マックスマシーンというゲーム機を発売していました。このマシンにはBASIC言語のカートリッジが用意されており、私はこれを使って初めてのプログラミングを学びました。無論、小学生時代ですから作るものもゲーム、遊ぶものもゲーム。
正月に実家に帰ったらまだ実機が物置に。メモリ512バイト。テレビへの出力。外部記憶装置はなし。プログラムは紙にペンで書いて保存しました。
当時、日本にはレンタルソフト屋という今ならば考えられない店がありました。数百円でソフトウェアパッケージを1週間レンタルするものです。著作権もなにもあったものではありませんが、当時は当たり前のように営業していました。レンタルソフトに通っては、カセットテープ媒体に入ったゲームを遊び、ソースを解析する毎日。おかげで、学校も年間欠席日数は60日以上になり、登校拒否児扱い。でも、このデジタル原経験がなかったら今の仕事に就いていないわけで、よくも悪くもゲームに左右されているなあ。
■ゲームのおかげで社長になった男の話
・Gamer'sViewバックナンバー
http://macky.nifty.com/cgi-bin/bnadisp.cgi?M-ID=0053
私は1999年から約3年間、ゲーム情報サイト(メールマガジン)ゲーマーズビューの編集長をしていました。後半の時期は忙しくて監修のみでしたが、この時期は年間50本を遊び、レビューしていました。この頃書いた文章は上記のバックナンバーの1999年6月以降に残っています。編集部にいたアクション苦手なへなちょこ女性ライターがいてレビューを手伝っているうちに、いろんなことがあって、彼女は今の私の奥さんです。私はゲームがきっかけで結婚したと言えなくもありません。
当時このサイトに寄稿を、頂いた友人に御手洗さんがいます。この記事の最後に「King Of Doomからの手紙 ゲーム大会優勝で社長になった男」という原稿を再度掲載させていただきます。彼は現在は、言わずと知れたITニュース出版社、CNET JAPAN代表取締役社長。原稿にあるとおり、キャリアがゲーム大会優勝から人脈を得て始まったのですから、たかがゲームなんて言えませんね。
・御手洗さんのブログ
http://blog.neoteny.com/mitarai/
・CNET JAPAN
http://japan.cnet.com/
■この10年間のゲームベスト10
この10年間で感動したゲームを紹介します。
ゲームとムービーのシームレスな連携と斬新なキャラクターデザイン、シナリオ。数年は先を行く当時100点満点のゲームでした。米国ゲーム誌でも歴代最高評価の伝説。
一緒に遊んだ某社長はデータセクション設立時には出資していただく仲になりました。
3位 Age Of Empire2(PC)
LANゲーム大会を会社で休日に開催して盛り上がりました。
鉄道王を目指す。緻密な戦略が必要。
最近のアクションとして白眉。
こそこそする緊張感。特殊部隊になって人質救出したり、ゲリラアジトを襲撃したり。
カードゲーム+モノポリー+ファンタジー。
8位 FF10(PS2)
RPGではこれ。
FF11はサービス開始と同時に参加して赤魔士L27までいきましたが忙しくて1年間以上ログインできていません。
コンセプトデザインの勝利。
次点:
・DeerHunterシリーズ(PC)
http://www.planetdeerhunter.com/
解説:Windows95の次によく売れたゲームDeerHunter
http://macky.nifty.com/cgi-bin/bndisp.cgi?M-ID=0053&FN=19990604014450
・街:運命の交差点(PS)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000634MI/daiya0b-22/
ゲーマーズビュー:2000年4月28日版より。現CNET代表の御手洗さんにインタビュー。
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■ GV Express -------------> 特別寄稿
━━━━━━━━┓【King Of Doomからの手紙 ゲーム大会優勝で社長になった男】
記事:橋本大也 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今週は、私の友人である、バックテクノロジーズ株式会社の代表取締役 御手洗
大祐さんからお寄せ頂いた特別寄稿記事をご紹介します。この会社をご存知でな
い方が多いと思います。それもそのはず、まだ出来たての会社であります。
しかし、御手洗さんは知るひとぞ知るインターネットビジネス業界のキーパース
ンでもあり、その豊富な技術的知識と洞察力で広く知られています。応用技術だ
けでなく、慶応ビジネススクールなどで学ばれた学術的な研究や理論にも造詣が
深く、私もしばしば勉強させて頂いています。御手洗さんは、これまで、かつて
はテレビコマーシャルなどでも有名な、ネオテニー社長である伊藤穣一さんの下
で重要な役割につかれていらっしゃいましたが、この度、モバイル端末のレイティ
ング情報サイトなどを運営する会社を起業されたばかりです。
そして、話題のインターネットベンチャー企業のコミュニティ=ビットバレイの
オフィシャルメールマガジンの編集長でもいらっしゃいます。
・ビットバレイマガジン
http://bvm.uva.ne.jp/
バックテクノロジーズ株式会社
http://www.waag.net/
御手洗さんと話をしていて、「実は私もゲームとは深い縁があるんですよ」とい
う昔話を教えていただいたのですが、その話が非常に興味深かったので原稿に書
き起こして頂きました。
御手洗さんは日本の初代DOOMトーナメントのチャンピオンであり、King Of Doom
の称号を持つ男だったのです。そして、そのゲーマーとしての実績が縁で、マス
コミでもおなじみの伊藤穣一さんと知り合い、人生がめまぐるしく、変わって行
きます。
たかがゲームだけれど、されどゲームなのですね。秋葉原のバイト店員が一本の
ゲームを究めたことが縁で、社長になるまでのストーリーを以下にお楽しみくだ
さい。そして御手洗さん、今後のご活躍を同じ起業家としてお祈り申し上げます。
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それは"DOOM"により始まった
御手洗 大祐
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個人的にこの1〜2年はいろいろと変化の多い年だった。結婚したのも初めて
であれば、転職も初めて、胆石を患って手術をしたのも初めてだし、更に会社
を作ったのも初めてだった。漸く初のサービスも立ち上がり、ひと段落ついた
ところでいろいろと昨今の変化の元となっているものをいろいろと振り返って
いるところだ。
思えば、これらの変化は私が"DOOM"という、id Software社が作っていたゲー
ムに端を発している。少し長くはなるが、このゲームを通して私が長い遍歴の
のち、起業することとなったか、その事情を説明したいと思う。日々ゲームを
やることに意義があるかどうかを悩みつつ、それでもゲームにはまってしまう
多くの方に福音となるような話であれば嬉しいと思う。
1995〜6年ぐらいのことだったと思う。私はテクノを愛する秋葉原のバイト店
員だった。その店は秋葉原の目抜き通りである中央通り沿いにあるビルの中に
あった。このビルにはソフマップのMIDI販売コーナーや、地下にはまあまあ食
べられるカレー屋(というか喫茶店)があることでも知られていたが、とにか
くそのビルの一室で営業する、CD-ROM専門店に私はアルバイトとして詰めてい
た。
CD-ROM屋というと、当時は友人等に話をすると「いい思いをしているのだろ
う?」と下衆な勘繰りを受けたものだが、実際のところ当時CD-ROMというとシ
ェアウェア集や実用もの以外はエッチなものが殆どだったので、それなりにい
い思いをしていたような気がする(しかも、海外から輸入するものの一部は処
理がされないまま発送され、それを税関も見落とすことがあったようだ。もち
ろん、売れないものとして先方に返送してしまうのだが。)。
当時のCD-ROMタイトルに関して評論してもあまり意味はないのだが、異彩を
放つものの多くは海外のタイトルであった。その中の一つに"DOOM"もあった。
"DOOM"は軽快に動作する、3Dアクションシューティングゲームだったが、その
シェアウェアとしてインターネット等で配布されていたソフトウェアを詰め込
んだCD-ROMタイトルは当時としてはかなり人気だった。
さて、私はこうしたものをいろいろと秋葉原で販売していたのだが、実は労
務経験のあるものにしかわからない事実なのかもしれないが、秋葉原は相当恐
るべき場所であった(今もそうかもしれない)。何故か?それは日本一と言っ
ても過言でないほど、顧客の異様なまでの物欲に毎日晒されることになるから
だ。少しでもセンシティブな人間であれば、1ヶ月も働くとその疲労困憊度は
尋常ではないものになり、また中には精神状態を崩す者もいたような気がする。
多くの店員は、この尋常ではない状況を正しい精神状態(?)で貫きとおす
ために、いろいろと回避行動を取ることとなる。仕事の合間にゲームをやった
り、訳のわからない雑談を楽しんだりする訳だが、私がこのうち特にはまった
のはDOOMだった。当時店にはデモ用のIBMの一体型デスクトップマシン、Aptiva
があり、これに勝手にDOOMをインストールしては、客足の少ない午前中や、午
後のおやつの時間等にこのゲームにはまっていたものである。このように、極
限状態の中で否応なくその腕前は鍛えられていき、知らない間に全国レベルの
プレイヤーになっていたようである。
自分でもこんな技術が何の役に立つかもよくわからなかったが、それが私の
人生を大きく変えるまでに役に立つ日が来るのはそう遠くはなかった。知り合
いのDJがあるイベントでDJをやる、とのことで呼ばれていったのが、実はIBMが
主催のネットワークゲーム大会だったのである。実はその会場に行くまでその
ことは全然知らなかったが、彼のDJを聞くために入り口で大会にエントリーし、
そのまま大会に出場してしまった。
ゲームは総勢32人、8人ごとにネットワーク対戦で予選を勝ち抜き、各ブロッ
クの上位2名が決勝に進出し、またお互いに打ち合うという仁義なき戦いであっ
た。それなりに経験がありそうな人が多かったが、実際にゲームが始まると、
秋葉原の精神的圧迫の中でサバイバルのために鍛えてきた腕前(?)に勝る人
はおらず、簡単に決勝まで進んでしまった。
決勝はさすがに猛者が揃っていたが、決勝の舞台となった面に関してその地
理的優位もすべて把握していた私は、ゲーム早々見渡しのきくポジションを押
しのけて獲得し、遠くで2者が打ち合っているところを遠目から狙撃するという
いたって合理的だが卑劣な方法で、あっという間に優勝してしまった。
これには自分も驚きであったが、更に驚いたのは当時かなりの高額商品であ
ったIBMの名機、Thinkpad 230Csが優勝者への賞品だったことだ。嬉々として私
はこれを収め、舞台での優勝者インタビューに臨んだものだ。
そして、またまた衝撃だったのが、現在私の会社にも出資を行ってくれてい
るネオテニーの伊藤さん(当時はまだデジタルガレージにいらっしゃったので
はないかと思う)との出会いだった。彼はこの大会の審査員としてこの場にお
り、また同じ席に現在東大にいらっしゃる武邑先生もその場にいらっしゃった
のだが楽屋裏でこのご両名といろいろと話すことが出来、元々大学で美学を専
攻していた私にとっては願ってもない機会だった。
これを機に、私も様々な経験をすることが出来たものだ。まず、賞品で貰っ
たThinkpad 230Csはあっという間にUNIXを少しでも学びたい私の餌食となり、
FreeBSDがインストールされることとなった。これにより、私は大学では縁のな
かったUNIXというものに触れることが出来た(当のCD-ROM店ではLinuxのSlack
-wareが全盛だったが、ノートに入れるのは少し難しかったこともあり、BSDが
選択された)。また、伊藤さんにはその後アルバイト等を通じていろいろ人を
紹介して頂いたりすることとなった。
こうして大学時代が過ぎ、一度は大企業に就職をしたものの、3年経ってみ
ればやはり在野のエッジな雰囲気を忘れることが出来ず、伊藤さんの招請もあ
ったこともあり、こうしてベンチャーの世界に戻り、自分で会社を興すまでに
至ったものだ。今はこうした状況に至極満足しているが、思い返してみると一
つのゲームがこうした私の人生を変える大きな契機となっていることに今更
ながら驚く。
たかがゲームとはよく言われるが、されどゲームである。どの世界でも、た
とえそれが人にあまり認められていないことでも頭角を表すことは悪いことで
はない。ましてや今はインターネットの時代である。周囲では注目されなくて
も、ゲームで道を極めることが世界的な大きな成功に繋がることもあるかもし
れない。
罪悪感を感じながらゲームをしているこの原稿の若い読者にも、誇りを持っ
てゲームを極めてもらいところだ。
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御手洗さん、激務の中、ご寄稿どうもありがとうございました。
ゲームのし過ぎで会社をクビになる人もいるのでしょうけれど、ゲームで社長に
なった人の話は始めて聞きました。
( 編集長 橋本大也 daiya@dragonfield.com )
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あああ、AoE2大会またやりましょうよう。
みんなPCも速くなってるしようやく互角の勝負ができるかと。
(負け惜しみ)