意識とはなにか―「私」を生成する脳
先日の記事に四家さんから頂いたコメントにヒントを得て書いてみました。
著者はソニーCSLの天才研究者茂木健一郎氏。ソニーのブランド名となっている「クオリア」は、本来は哲学用語。本書はクオリアをめぐる、意識と脳に関する深い洞察を、一般向けにやさしく語った本。要約しながらコメント。
■クオリア
「私がみている赤と、他人が見ている赤は同じなのかどうか」
クオリアとは、もともとは「質」を表すラテン語で、私たちが感じるさまざまな質感を表す言葉である。私たちが感じる、考える、ほぼすべての意味や概念はクオリアであるといってよい。(およそ心に思い浮かぶものでクオリアでないものを探すのは難しそうだ)。だから、上の質問は、私の「赤」のクオリアと他者の「赤」のクオリアは「違う」のか?という意味になる。「違う」も「同じ」と対立するクオリアのひとつである。
私たちは交通信号をみて赤なら止まる。科学者なら光の波長を計測してどこからどこまでが、おおよそ赤と定義もできる。社会的な意味での赤、科学的なコンセンサスとしての赤というのは確かに存在している。だが、主観的な感覚としての、私の赤と、あなたの赤は少しずつ違う。過去の経験や現在の脳の状態は一人一人異なっているから、主観的な赤というクオリアの内容は、1人として同じではないことになる。
「同じ」と「違う」はA=B、A≠Bと論理的に片付けられる問題ではないと著者は言う。例えば、私たちがお札を使うとき、「千円札」というクオリアが、買い手と売り手で「同じ」だから取引が成立するが、買い手が偽札業者と知っていれば、彼の出す札は偽札かもしれないと思う。「私」にとってのどんなクオリアも、文脈やプロセスが、二つのクオリアが「同じ」かどうかを決めている。<あるもの>が<あるもの>であるというのは、それをユニークなクオリアとして把握する脳のプロセスに支えられている。
■相手の心の中に、私の心の中と同じ構造の積み木をつくる
「
私たちの感じることのできるクオリアのレパートリーは、脳の中の自発的な生成のプロセスによってあらかじめ決まっていて、外界からの刺激がきっかけとなってそのうちのあるものが選択されるに過ぎない
」
私の好きな小説にもこんな例がある。プルーストが「失われた時を求めて」の中で何十ページにも渡って、主人公のマドレーヌの匂いへのこだわり、連想を披露するシーン。あるいはミランクンデラの「不滅」の冒頭のシーン。主人公はパリのプールサイドで見知らぬ女性が、軽やかに手を振るのを見る。その手の仕草にかつての恋人「アニェス」という名前が浮かび、長い物語が始まる。これらの豊穣なイメージは、どこまで説明しても、表現者のそれそのものを伝えきることはできない。クオリア同士が複雑に影響しあっている状態が、表現者にとっての「マドレーヌの匂い」であり、「軽やかに手を振る姿勢」を構成してしまっているからだ。
この一説からは小説のほかに身近なシーンも思い浮かんだ。これは仕事のプレゼンテーションや説得交渉でも日常的に体験することだ。私たちは自分のアタマの中のアイデアを、他人のアタマの中に再現しようと試みる。自分の頭の積み木を他人の頭に再現しようとする。しかし、クオリアは個人的なものだから、似たものを他人に説明しようとしても、完全にはできない。積み木の部品を共有しているわけではないからだ。養老猛の「バカの壁」とも通じる、人間は分かり合えない理由の説明になっている。
■人工知能アプローチ、機能主義、計算主義への批判
科学者は人工知能で人間の心を模倣しようとする。人間だったらこういう刺激を与えるとこういう反応が返ってくるから、そうなるようにソフトウェアを作ろうとする。脳の機能は解明されつつある。人間が思考や感情を思い浮かべるとき、脳のどの場所がどういうふうに活性化するかは分かってきたし、いずれは完全に解明できるかもしれない。
しかし、心を脳の機能としてとらえたり、脳の1000億の細胞同士の関係を、概念同士の関係としてコンピュータ的に計算すれば人間が何かを考えるのと同じ結果が出る、という従来のアプローチでは、クオリアが表現できない。なぜなら、何がクオリアかを決める肝心の「私」はそこにはいないからだ。「私」が無数のクオリア同士の複雑な関係性を作り出している。
クオリア同士の関係性は体験によって変化し続ける。脳の状態は常に変化していて同じではない。しかし個々のクオリアの意味は永続する。一晩眠ったからといって「赤」が「青」にはならないし、何年経っても赤のままである。著者はこのクオリアの同一性を保持する能力こそ、進化の過程で人間が獲得した自然の究極的なテクノロジーなのだと結論している。
これは、むずかしい問題についてのやさしい本である。著者もまだこのクオリアの研究をどう技術的に実用に結び付けるかは分かっていないと告白している。脳や心の科学、そしてコンピュータの科学は哲学と密接に関係する時代になった。クオリアの技術はきっと、現在話題のセマンティックWebの、何世代か先で、私たちの世界を根底から変えてしまうくらいのパワーを持ったイノベーション技術になると私は考える。だからこそ、茂木氏のような現代のベスト&ブライテストたちが今、すすんで取り組んでいるのだ。クオリアの研究からは目が離せない。その分野を俯瞰し、考えてみたい人の入門書として最適の一冊。
評価:★★★☆☆
参考URL:
・茂木氏のクオリアマニフェスト。
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
・公式メーリングリスト(過去ログ)
http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageListForm/qualia@freeml.com
私も何年間も加入はしているけれどもとても発言できないでいます...。
・茂木健一郎 クオリア日記
http://6519.teacup.com/kenmogi/bbsご本人の日記。
・ソニーのブランドとしてのクオリア
http://www.sony.co.jp/QUALIA/
・過去関連記事:茂木氏監訳の脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000134.html
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「意識とは何か---(私)を生成する脳」 著:茂木健一郎 ちくま新書 →amazon 僕らは意識しないで普段の生活をおくっている。 目の前の緑色の葉っぱがどうして緑色に見えるのかとか、そもそも僕らの眼がどうやってそれを知覚して、それが葉っぱであると断定できるのかと... 続きを読む
きっと、「クオリア」とは,実在する物質を物理的にとらえる(自然科学的)側面と、脳が認識する意識(人文的)側面のインタフェイスを表すと言うことでしょうか?対象に対しては、自然科学的分析からは得られない「質感」的な要素があり、一方で脳のニューロンのパラダイム(電位の時間と場所)から生まれる意識・認識があるので、個人個人で捉え方が異なる。この隔たりを、共通した概念・基準で捉えることが迫られ、「クオリア」を研究する必要があるということでしょう。情報処理でのインタフェイス、異なる文化の架け橋、言語(英語とか)で言えばスキーマーの共有、これらについて定義・機能・効果を示すことが「クオリア」の解明であり、「未来感覚」を手に入れることなのかと理解しました。あ、本はまだ読んでません。
読まれていないのにずばり要約されてしまいました感があります。知人によると、「Brain-Machine Interface」ということみたいです。
エスペラント語のような共通言語を作るとか巨大オントロジー(概念DB)を構築するというアプローチではなく(原理的、コスト的に個人的にはそれは破綻すると考えています)、この問題を解決する糸口がクオリアにはありそうに予感します。
af_blogのfuRuともうします。
はじめまして。
先にコメントされているTRitonさんのいう「この隔たりを、共通した概念・基準で捉える」ための「クオリア」という概念に、納得させられました。そのコメントを呼んだdaiyaさんのこのエントリーも、興味深く読ませていただきました。
TBさせていただきます。